「例えばローマの荒野に彼らしかいなければ」 by じゅん様
そんなに黙ってなくてもいいだろ?何か言えよ、って思ったけど、実際俺も何か話す気分にはなれなかった。
あのムーア人は地獄の覇者だったっていうことに、もっと早く気づいて騒いどきゃよかったなって思う。でも小さい頃から一緒だったし俺たちがバカだから、こんなことしてる今だってあいつの言いなりだ。
「この乳母を原野に埋めてこい。」そうアーロンは言った。そう俺たちに命令した。元々そんなたいして持ってなかった王子の誇りは、あいつの一言に吹き飛ばされちまった。その時のアーロンは別人みたいで、俺たちはあいつの本当の肌の色さえわからなくなってた。もっと言えば、あいつが人間かどうかも俺は疑った。なぜかって、まだ俺たちは何とか人間なんだっていうことを、あいつに気づかされちまったからだ。
ディミトリアスには言わないけど、俺はあの時、タイタス・アンドロニカスの一人娘を殺さなくて良かったと本気で思った。それに、あの婚礼の乱痴気騒ぎの翌朝、自分のたった一人の兄を刺し殺さなくて良かったと、かなりかなり本気で思った。もしディミトリアスに知れたら、またガキ扱いされるかも知れないけどそれでも構わない。
それからついさっきまでは、地下牢の遥か昔に血塗られた壁とか、バカにしてるみたいにわざわざついてる窓枠とか、鉄格子に巻きつけられたまま錆びついた有刺鉄線とかが性悪に見えた。とてもいつもの友達には見えなかった。
その宮殿の地下牢を出るまで、アーロンに向かってかしずく言葉を吐き続けたディミトリアスは、そこを出れば今の今まで無言のままだ。
深くなってきた霧の中で、屍を乗せた荷車を引っぱるディミトリアスがホントにそこにいるのか、それを後ろから押して歩く俺には見えなかった。だから呼んだんだ。
「ディミトリアス?」
「俺の名を呼ぶな。汚らわしい血筋がバレる。」ディミトリアスの声は消沈してる。
ゴートの王族の血が汚らわしいのはもうずっと前からわかってる、って言い返そうと思ったけど、俺はやめた。それ以上に汚らわしい血の繋がりをついさっき見せられたうえに屈辱までされて、俺だってちっとはショックだったんだ。
「話しかけんな。」ディミトリアスは言う。「お前が無神経な弟で、マジで辟易する。」
ディミトリアスは確かに動揺してた。とてもそれを俺に言うとは思えなかったけど、宮殿の灯かりが遥か遠くに見えるだけの荒れ地まで来て、荷車から死体を担ごうとしたら、あいつは脱力したみたいにそれを腕から滑らせちまった。
確信はなかったけど、犯った挙げ句に殺さなくて良かったっていう俺にしては信じられない些細な良心が、今の俺の動揺を抑えてくれてた。ディミトリアスが自分と同じように息をしてるっていうことにも安心した。
昔から後片付けは嫌いだったし、誰かの後始末なんて勿論したことはなかった。命令されて死体を埋めることになるなんて夢にも思わないぜ、普通王子なら。俺たちが今まで簡単に人を殺せたのは、その後始末が必要なかったからだって、今頃学んでも遅いんだけど。
沼地の近くの荒野で、ふらっと姿を消したディミトリアスを放っておいて、俺はあちこち血と泥で汚れた白い布の塊を一人で運んだ。ずるずると奥地に引っぱっていくうち、布から突き出した屍の白い足首が俺の素手に触れた。
俺はその感触に、この乳母のひからびた子宮を思い浮かべた。そのあとで犯したラヴィニアの瑞々しかった内部を思いだしちまって、同時にこいつらはたかが女だって思って虚しくなった。
アラーバスの処刑が俺に教えたものは、狂気に勝てるのは狂気だけだっていう、鼻糞みたいな理論だった。だけど、たかが女たちは少なくとも鼻糞よりは綺麗で、俺たちの血が鼻糞よりも濁った色をしてるっていうことは、いつまでたっても変わんないような気がする。いつか俺たちはその理論に乗っかって、今よりもっともっとスゴイことするんだろう。孕んだ女の腹を裂いてみたり、逆さに吊るした男を風呂に突っ込んでみたり、そうこうするうちに人の肉だって食っちまうかも…それから、
「カイロン!」
どこか遠くからディミトリアスの呼ぶ声がする。ああ?って声を発して、俺は妄想の深みから這い出られた。すげえいいタイミングだった。
「ディムどこにいる?」
多分ありえないけど、悪魔以外の誰かを捜してるんだったら、俺はここだと言いたかった。死体をその場に落っことしたまま、俺はディミトリアスを捜した。
「カイロン!イカれトンチキ野郎!」
言葉と一緒に背中に何か当たって、俺は恥ずかしいくらいびっくりしちまった。だから少しでも動いてる奴を見つけたら、飛びついてやろうと俺はあたりを見回した。だけど動いてる奴なんてどこにも見えなかった。風が止むのを待ちながら、傍らにぶん投げられてる女の白い足首に眼をやると、そこに枯葉がまとわりついて痒そうだ。霧はついさっき晴れたけど月なんか出てなかったから辺りは暗いし、地面は朽ちた枝と枯葉が風にうるさかった。他に何が動いても音を聞き分けられそうになかったのに、これもすげえいいタイミングだった。
「カイロン!」
風を縫って聞こえた声のする方に真っ直ぐ走って、小さい林を一つ抜けたら、そこにディミトリアスがいた。虎の毛皮で縁取ったコートに包まって、足を投げ出して座ってた。爪を咬んでるのはあいつの癖で、それはイライラしてる証拠だ。
俺に辟易してるんじゃなかったのか、って訊いたら、ディミトリアスは虚ろに俺を見上げた。夜目なのにちゃんとわかる顔色は、それがあんまり白かったからだ。俺はこいつもビビッてるなって思って、何だかちょっとからかいたくなった。俺はディミトリアスの前に立って、右の三つ編みのつけ根を振りながら言った。「ビビッってやんの。」
んなこたねえよ、って即答されて、俺はますます図に乗った。俺はふてる兄弟の隣に座り込んで、暇つぶしの戯れ事みたいにぐしゃぐしゃ頭をなでてやった。
「心配すんなって。俺もちょっとはビビッてるけど。さっさと済ませて帰ろうぜ。」
自分ではいい調子にカッコつけれたと思った。けど、そんなことじゃねえ、ってディミトリアスは言った。「カイロンお前、あれを弟と呼べるか?」
あの血で兄弟なんて俺は認めねえ、ってディミトリアスは息巻いてる。あいつらみんな狂ってる、なんて自分は真人間みたいなことをわめいてる。俺が「ガキくせえ」って呟いたら、いきなり耳に咬みつかれた。こいつはイラつくと何にでも咬みつく奴なんだ。
「な、何してんだ!痛…」って俺が言っても、ディミトリアスはやめちゃくれなかった。言葉のアヤなんかじゃなくて、咬まれた耳たぶが本当にぎりりと音を立てた。今動いたら咬み切られそうで、ディミトリアスの長くてゆっくりした鼻息をイヤというほど聞かされたまま、俺はピクリともできないでいる。
そのうち右耳の感覚がほとんどなくなって、かわりに首筋があったかくなった。血だ、ちくしょうクソ兄貴、って思ったとき、ディミトリアスが口を離してぼそりと言った。「どいつもこいつも血ぃ混ぜてばっかりいやがる。」
いつもなら咬みつき返して大暴れしてやるところだったけど、俺はできなかった。ホントはどうでもいいことなのにこいつが余計なこと言うから、ここは異国で、純血のゴートの王族はもう残り少ないんだっていうことを俺は思った。っていうか、俺たちがあの母親と交わらない限りすでに血は絶たれてるってことに、ちょっとだけ唖然とした。
だから俺は言ってやった。「俺たちに弟なんていやしねえ。」
「あの黒ん坊を殺る気か?」ディミトリアスは俺より殺気立ってる。
「アタマ悪ぃな、そんなんじゃねえよ。」
人のことは言えないけど、俺もすごくイライラしてたし、咬まれた耳はとてつもなく痛くて、せめて口くらい好きに叩かせろって感じだった。いつか王位を争うんだって思ってきた奴なのに、今だけは俺の方がかなり優勢に見えて、それが情けなかった。
「あんな下劣な血のガキなんてどうでもいいってことさ、マザコン野郎。」
「…マザコンって言ったな。」
「ああ言ったさ!マザコンはマザコンだ。あの奴隷に嫉妬してんじゃないぜ。」
「この野郎!殺すぞ!」
「俺を殺したらゴートの王族を継げる男はお前だけだ。わかってんのか?」
ディミトリアスは、お前そんなこと考えてんのか、って言いたげな顔になった。急に現実が蘇ってきて、それが嫌んなった俺は言う。「ディム、休戦しようぜ。」
弟に言われて悔しくないのかよ、とも思ったけど、俺は今日こいつと争うよりも、この現実を一緒に笑い飛ばしたかった。だからしばらくの沈黙のあと、ディミトリアスが俺の顔を下から覗きこんで、俺の唇に咬みついたときも、正確に言うとキスしてきたときも、抵抗する気は全然なかった。この純血の片割れはいつものじゃれあいを超えて、口の中で俺の舌を探してた。しょうがねえなあって諦めて、少しだけ絡めながら遊んでやった。ディミトリアスの口ん中から血の味が漂ってくる。そうやってしてると、何故だか俺は胸が一杯になってきた。俺たちはこの先いろんな女と犯るんだろうけど、その誰もゴートの奴じゃないんだって思ったら、たかが女より同じ血筋の男に欲情することの方が正しいような気がしてきた。そんなこと考える俺も、どっかおかしくなってたんだろうけど。
一瞬の強い風に舞い上がった枯葉の壁が俺たちを包囲して、俺はそれに大地の怒りを感じた。俺たちがあんまり血を吸わせすぎたからだ。大地の神だけじゃなく、神と名のつく奴なんかにはとうの昔に見放されてる。きっと死ぬまでも死んでからも一緒なのはこいつしかいないんだ。思ったより結構大事な男だったりして…。
多分、そんなふうにディミトリアスを見くびった俺がバカだった。
「休戦だと?俺とお前にそんなフザけた協定なんかあっか。」
喉仏をものすごい握力で締められて俺は声を失った。目の前には急に光を取り戻したディミトリアスの眼がぎらりとしてて、その手の勢いにぶっ倒れた俺は地面に頭を打った。
霞む意識の中で、俺はディミトリアスの生贄になってた。永遠に即位できない王の生贄になって、槍で突かれたみたいに動けなかった。永遠に不幸なゴートの若い王は俺の首をねじ伏せて、耳から血を吸い取っては俺に舐めさせてくれる。それが王の慈悲なのか何なのかわかんないけど、俺はそれにひどく感じて、ついでに奴の唇が真っ赤になりながら唾液の糸を引いてんのを見てたら、どうしてか涙がこみあげてきた。
「もし、何かに祈ろうなんて思ってんなら、」ディミトリアスはその手に力をこめる。「悪魔にしとけ。その方が少しは楽だろ。」
俺は眉間がきゅうと痛くなって、視界の上半分が消えて、ディミトリアスは俺を殺す気だと思った。どうせ死ぬなら虎に翼をもぎ取られた鷲みたいに殺されてやる。咬みつかれて、内臓を引っぱり出されて、その全部をディミトリアスが食って、そうすればどんな低俗な奴にも負けない濃い血を持つゴートの王のできあがりだ。
アラーバスがそうされたように、殺すなら俺から何もかも持っていっちまってくれ、って覚悟を決めたら、ディミトリアスは首にかけてた手の力を弛めた。そうしながらむせ返った俺の涙も吸い取って、唇に戻してくれた。中途半端な息苦しさに怖くなって、でも今感じてる温度を離すことの方がもっと怖くて、俺は泥やら枯葉のクズやらを口ん中でこちゃまぜにしながらディミトリアスにしがみついてた。
「もう俺たちしかいねえ…」ディミトリアスは言う。
王と生贄しかいない国には荒野が延々と広がってる。強姦したり死体を埋めたりするのが俺たちの仕事だ。王は生贄を慈悲で生かして、そのお礼に俺は殺人ごっこのお相手をしてるんだ。二人しかいない王国で。
俺は思う。それもたのしーよな。
「気分は?」自分の孤独に気づいた王が労わってくれてる。「なんか言え。」
「ディム」俺は声が掠れてうまく喋れなかった。「勃ちそーだ。」
かなり本気で言ったら、ディミトリアスは信じられないくらいでっかい声で笑った。俺は何とか呼吸を取り戻しながら、そんなこと言っちまった自分に焦った。
「いまいましい奴だな。」ディミトリアスは笑う。「今度ディムって呼びやがったら、」
ディミトリアスは立ち上がった。俺の手を引いて、三つ編みにこびりついた血を指でぬぐいながら言う。「後ろの穴からお前の内臓を引っ掻き回してやる。」
いっそのこと、そうしてくれりゃ良かったのに。これ以上誠実で純粋な交わりはないってくらいに。
それから俺たちは夢中で地面をほじくり返した。ふらふらしてた俺を見て、ディミトリアスは「役立たず」って笑ってた。俺は別にたかが女なんてどうでも良かったけど、その女があんまりにもいろんなことを連想させるから、何にも考えないように、たかが女、たかが女ってひたすら自分に言い聞かせてた。どうやらそれは声にも出てたみたいで、ディミトリアスに「うるせえ、何言ってんだ?」って訊かれて初めて俺は我に返った。
覚えてるのは、生まれてはじめての墓作りが不名誉で悲惨なもんだったってことだけだ。
やがて俺たちは、爪の中まで泥まみれのまま宮殿へと戻り始めた。頭のガンガンも、片耳の血も止まんない俺は荷車に乗っかって、ディミトリアスが黙ってそれを引っぱってくれた。珍しく文句も言わず、行きとは別人みたいな勢いだったから、ローマの宮殿はあっという間にその灯かりの数を増やしていった。
「血ぃ止まんねえな。さっきあんだけ首締めたのに。」ディミトリアスは冗談みたいな本気みたいなことを言いながらまた笑う。
そりゃ俺たちだって、アラーバスが処刑されるまではそんなに気が振れた奴らじゃなかった。悪戯好きで、下品に笑い転げてるだけの兄弟だった。ワガママで血の気の多いただの若造だった。俺は一瞬だけそんな頃に戻りたくなって、この荷車がゴートに向かえばいいと思った。その中の俺は生贄にされる戦利品の奴隷で、でもディミトリアスの持ちもんならいいかな、なんてそんなことをぼんやり思ったりもした。
「王子様、遅いですぞ。」
だけど地下牢では、地獄の葬儀屋が次の埋葬客に足を掛けて俺たちを待ってた。
俺たちは神の嫌うことすべてを正当化しまくって生きる国の、たった二人だけの市民だったよな。
「行くぞカイロン。」
隣には狂気を狂気で克服する気満々のディミトリアスが立ってる。帰りの道すがら、奴にも悪魔が降りてきたのかも知んない。俺にも早く降りてきてくんないかな、と思う。そうすればあの荒野の王国で、俺はその国中に聞こえる声で「ディム」って繰り返し叫んであいつに犯されてやるんだ。
首の皮一枚で保ってる人間最後の日をまだ終わらせられなくて、俺にはそれがひどく苦しかった。
The End